うすぐらい日曜の昼、蛍光灯が不意に消えて数秒、パチパチいいながらまた明るく点いた。
その数秒で一度宇宙は閉じて、生まれ変わってしまった。
まず、影。家から出ると、背の高い人の形をした影が音もなく滑るように歩いていた。半透明の影同士がすれ違うと、重なった部分だけ真っ黒になって、そこに青やオレンジの光が無数に瞬く宇宙のようなものが見えた。
電車は動いていた。しかし誰も乗っていない。駅にも改札にも人はいない。
改札が開く音だけが虚しく響いた。
都会の方へ行くと、ビルの表面を普通の二倍くらいの、踏みつぶすのをためらうような大きさの蟻が群れて這っていた。
このあたりで僕は、自分の気が触れたのだろうと思った。
ビルの屋上から何か落ちてきたと思って足元を見下ろせば、製氷皿で作ったような四角い、角の少し取れた氷だった。あまり透き通っていない。拾うとひんやりしていて、体温で少し溶ける。
人工的な形だけれど、雹かもしれない。見上げると空は白灰色に濁っている。
ガスマスクのようなものをした巨大な鳥が、僕の頭上に影を作って通り過ぎた。
僕は途方に暮れて、誰もいない都会の真ん中で立ち止まる。
店のガラスケースの中にセールらしきポスターが貼られていたのだが、その文字はどこの国のものとも思えず、読もうとしても読めない、見ていると頭痛を催す奇怪なものだった。
やっぱり世界は生まれ変わったのだ。
もしくは僕の頭が壊れてしまったのだ。
僕はともかく、この世界で生きるしかなかった。
自宅へ戻ると、母が花瓶に飾っていた花が墨色になっていた。
萎れたというより原形をとどめたまま炭化してしまったようなその姿には哀愁が漂い、死というものを僕に意識させた。
近所のスーパーから少しずつ食糧を拝借して食べ、生きる。冷たさを失った冷凍棚に置かれた肉や魚はじき腐ってしまうだろう。
スーパーのレジはトーテムポールに変わった。
相変わらず家から一歩出ると人の形をした影がうろついているが、特に僕を気に留める様子もなく、そもそもその影に目や意思があるのかすらわからなかった。
人間が消え、あらゆるものが狂ったように元の姿を失って、見知らぬ奇怪な生き物がうごめいている。
何をしていても現実感がない。自分の立っている地面がふわふわとしていて、どこにいるのか、そもそも自分が存在しているのか曖昧になってきた。
「僕はここにいる」
自分が生きていることを確認するため一日一度呟く言葉は、まるで未開拓の星に取り残された宇宙飛行士のようだ。
メーデーメーデー、妻と子供たちにこのメッセージを送る。地球のみなさん、お元気ですか。
僕は次第に、自分以外の人間を探すようになった。
電車は動いている。行先表示の文字は読めなくなったが、いつまでも動き続けた。ただ、僕が使う電車以外の車両がホームに入ってきたのを見たことがない。
都会へ行った。ビル群の表面には蟻が這い回り、ボリボリと音をたててガラスを食べるカマキリのようなものまで現れた。人間以外の生き物がこんなに怖いと思ったのは初めてだ。
毎日一つずつ隣の駅で電車を降り、手当たり次第に街を歩き回る。
ゆっくりと文明が浸食されていく。
ひび割れたコンクリートから背の低い草が芽吹き、ビルの表面を蔦が這いずり虫が栄えた。屋上で小さな植物を生やしていたようなビルは、育った大木の重みで傾いてゆく。
僕はそれを見続けた。たった一人、仲間を探しながら。
ある日、空色のひさしがかかったアーケード街の片隅に、人影を見つけた。
街にうろつく半透明のもったりした影とは違う。背が高く、黒く見えるのはスーツ姿だからか。
ひょろりとしたその人物はすぐ建物の影に隠れてしまう。慌てて走り出した。
人間だ!人間だ!頭の中で叫んでいた。
あの角を曲がれば追い付く、そう思ったものの、人影は跡形もなくなっていた。
それから僕は、その人影を見つけるために歩くようになった。
その人物を見かけたアーケード街に何度も足を運んだ。
人影はいるときもあれば、いないときもあった。そして決まって、僕が見つけて追いかけると滑るように逃げ出し、どこかに消えてしまう。
そのアーケード街だけでなく、僕が家の近くで食料の調達をするときも人影はたまに現れた。
僕と同じように、あちこちを歩いて人を探しているのだろうか。しかし、僕らが接触することはなかった。
もどかしい追いかけっこのある日、僕はビル群のある都会にいた。初めて人間が消えた日、向かった街だ。
あまり来ていなかったが、電器屋が目当てだ。
随分長い時が経ったが、インターネットの世界はどうなっているのだろうと思ったのだ。普段使うことがないため気付かなかった。
世界が流転してからの日々の中で、更新されているページがあるなら、それは人間がいる証拠だ。
かすかな希望を託して、苔がびっしりと茂った電器屋の店頭に置かれた展示用ノートPCを起動する。
なぜ電気が通っているのだろう。
インターネットの世界は、現実と同じく廃墟になっていた。
SNSが、ある日付を境に更新されていない。
それは定かではないが、宇宙が流転した(と、僕が認識している)日と同じようだった。
世界が終わるだとか、世の中がおかしくなったとか、そういう呟きも見つからない。
アニメ、バーベキュー、死にたい、仕事。特別変わったこともない日常がそこに、氷漬けになっていた。
一瞬、泣いてしまいそうな、途方もない虚しさが込み上げてきた。
いつまで。
そんな気持ちの中、インターネットサーフィンをする。海の向こうに島があるのを探す遭難者の気持ちで。
その中でふと、「都市伝説」のキーワードで検索をかけたのは、僕がいるこの状況はまるで物語のようだと思ったからだ。
宇宙が流転して僕以外の人間が消えたのではなく、僕一人が次元の狭間、現実のひび割れに迷い込んでいるとしたら……
別の次元に迷い込む設定の小説なら、何かドアに類するものを見つければ、元いた懐かしい世界に帰れるはずなのだが。
そううまくいくのだろうか、という自分の疑問に、僕は「たとえば」で考えてみる。
たとえば。
僕が探し求めているスーツ姿の男と接触することができたら、彼が「ゲームクリアおめでとう!」と朗らかに笑い、腕を広げて僕を道案内してくれる。
と、考えてみる。
信じるのは難しい絵空事だ。けれど、現実味がないというのなら、僕の身の回りに起きているこのことこそ現実味がない。
それなら僕は信じてみる。
日常の最中で突然異次元に迷い込んだ人物の記録は幾つも見つかった。帰還したという話も半分ほどあった。
また、都市伝説の数々を調べるうち、もう一つ気になる記述を見つけた。
「スレンダーマン」という架空の存在だ。
姿形は記録した人物によって違うらしいが、概ね、異様に背が高く黒いスーツ姿に見えるようだ。
イラストや捏造された写真を見て、背筋が震えた。
僕が探している、あの男だった。
あの人間だと思っていたものは、スレンダーマンだったのか。道理で僕を認識していてもよさそうなのに、近付いてこないわけだ。
妙に納得してしまう。しかし、相手が僕と同じ境遇の人間でないのは、むしろ良いことに思えた。
迷子の人間が二人になるより、元の世界に戻れる可能性が上がるのではないか……それも「たとえば」のとても前向きな意見だ。
スレンダーマンに接触する。改めて固く心に誓った。
パソコンを閉じると、途端に役目を終えたように氷の塊に変わってしまった。この世界では、絶対と言い切れるものなんて何もない。
僕も一秒後には、植物か虫か金属に変わっているかもしれないのだ。そう思うと、猶予はないように思えた。
ぱちぱち。ぱちぱち。裸電球が揺れて、明滅する。
ここは海の家。僕は海に来ていた。
できるだけ遠くへ行ってみようと思い立ち、電車を乗り継いで見知らぬ海へやって来た。駅名も僕には読めなかった。
今は恐らく春の終わり。と言っても、日付の感覚はとうになかった。ただ、風の匂いでそう思っただけだ。
本来であっても、海の家はまだ開かれていないだろう。
がらんとした室内には小さな赤いカニが群れていて、蹴飛ばすとハサミをかちかちと鳴らしながら逃げるように忙しなく走り出す。
開け放たれた扉からさざめき明るい砂浜へ出て行く姿は、人間がいた日のことを思い出させた。
話し相手がいない今、たまに声を発する練習をしていなければ、僕の喉は張り付き潰れていただろう。
海は広くて青い。当たり前のことがとても嬉しかった。
ビルが崩れ、空からは氷が降る。僕が知っている世界が少しずつ形を変えている中で、見知った姿のままの海は愛しかった。
波打ち際に沿って歩いてみる。
カラフルな糸が絡まり合って波に洗われているのはゴミが落ちているだけに見えるが、虹色をした糸がどこから流れてくると言うのか。
海はいつものように見えても、世界はやはり歪みを覗かせていた。
不意に気が触れそうになって、嗚咽を漏らす僕のもとへ、スレンダーマンが現れた。
細長く黒いシルエットが遠くに見える。彼の姿を隠すものは何もなく、改めてはっきりと見た姿に僕は異形を感じた。
落ち着いて見れば、最初から彼は人間ではなかった。苦笑してしまう。
今日は逃げも隠れもしない様子だ。
二人はようやく出会う。どんな気紛れの悪戯だろうか。
僕らは数メートルの距離を隔てて相対する。近付けば、彼は離れることなく立っている。
よく見てみると、スーツの肩の辺りがぞわぞわと黒く蠢いている。
もう少し近付くと、スーツのように見える身に纏う黒は宇宙のように深く、奥底で渦を巻いているように見えた。
スーツの肩のぞわぞわが徐々に伸びて、紐状の黒い触手が数本、彼の体から溢れる。それは肩からも腕からも伸びていた。
あと一メートルもない距離まで僕が近付くと、触手が反応したように僕の周りに伸びてくる。
不思議なことに、彼の顔や細かい特徴を僕は覚えていない。ただ腕が細長く、宇宙のように深い黒で包まれていたが、それは本当にスーツなのかと言われると自信がない。
「連れて行ってくれ!」
そう言った途端、黒が視界に溢れた。
がばり、と、無数の触手に抱き締められたのだと気付く頃には、真っ黒に染まった視界に方向感覚を失い、僕は漂っていた。
宇宙に放り出されたようにぐるぐると回転し、体の自由も効かない。
そんな感覚は錯覚だったのかもしれないが、やがて自分がどこにいるかわからなくなり、時間の感覚も失い、吐き気を覚えた。
無限を感じたあと、不意に自分が立っていることに気付いた。
黒いもやが視界の隅に追いやられるように掻き消えて、僕は自宅のリビングに立っていた。しんとしている。
何故か僕は、今日が日曜の昼であることを悟った。振り向くと、テーブルに母が飾った花が瑞々しく咲いている。あの花は確か、僕の宇宙が流転した日、無残に墨色になって死んだ花だ。
頭の上で電灯が点いていた。
僕は何を考えるよりも早く、壁のスイッチに指を伸ばして電灯をぱちり、と消した。
そして密かに宇宙は閉じる。
星雲と秘密の暗がりを孕んだまま。
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【るるるる】2015/10/10