眼鏡のレンズが半分になってしまった。

 

割れた残り半分が危うく嵌った、フレームのひしゃげた眼鏡をぶら下げて歩いている。

 

僕の持ち物は、誰かのうっかりで壊れることが多い。

 

うっかりした同級生は、悪びれずに笑う。

 

同級生と話をするとき、向けられる話題は大抵、僕がいかに周りを苛立たせるかということだ。

 

相手が唇の端を歪んだように吊り上げて、少しサディスティックな欲求を満たしているのを見ている。

 

僕は誰かをスッキリさせるために生きていた。

 

自己否定が燻って、僕の中で漠然とした憎しみが育っていた。

 

眼鏡がない景色は不思議だ。

 

車道を走る車のライトもぼやけて景色の角が取れ、何も僕を傷つけないように優しく見える。

 

だから今は僕が、誰かを傷つけてやろうと思った。

 

神社の側にある池を思い出して、向かう。

 

気まぐれに投げられた餌をなんでも一呑みにしてしまう鯉たちは、僕の憎しみも丸ごと飲み込んでくれるだろう。

 

曇天の夕方だった。

 

半分になった眼鏡のレンズに薄い夕日が反射する。

 

足音だけで集まってきて水中から鼻先を突き出し、ばくばくと口を開閉する無数の鯉の群れは不気味だった。

 

レンズの破片を引き抜いて、その中央に放り投げる。

 

きらきらと飛んでいった破片はすぐに鯉の黒い身体の合間に見えなくなって、誰か飲み込んだかはわからなかった。

 

この中のどいつかが死ぬ。

 

そう想像すると腹の底から悦びが込み上げて、きっと僕の同級生たちもこんな快感を味わっているのだろうと想像がついた。

 

僕は立ち去って、そうして日々を過ごした。

 

三年が経った。

 

僕は誰かをスッキリさせるために生きていた。

 

曇天の夕方だった。

 

ぼってりと重い雲全体が薄い茜色に光っている。

 

僕はマンションの屋上にいた。同級生が住んでいる建物だ。

 

飛び降りるにはいい天気だ。

 

あまり晴れていたら恥ずかしい。

 

フェンスを掴んで真下を見ると、結構な高さがあった。

 

もう決めたはずなのに、いざとなると少しためらってしまう。

 

そのとき、雷が鳴った。ぽつぽつと小雨が眼鏡に落ちた。

 

じっとマンションの真下、人が通るため植え込みが途切れた玄関部分を見る。

 

僕が今から向かう現実だ。

 

この雨が僕の血を洗い流して薄めるところを想像する。よし、と、頭の中で声が反響した。

 

顔を上げると、空に縄が浮かんでいるように見えた。

 

青みがかった黒い縄は少したわんでいて、先端は毛羽立ちコブができている。前方と後方の左右に紐のようなものが計四本付いており、それぞれ三又に分かれていた。

 

その縄が時折旋回しながら空の向こうから近付いてくる。

 

雨の幕から姿を現して更にはっきり見えるようになると、縄のコブ部分には鹿のような角があり、立派なヒゲがあり、ライオンのようなたてがみがあった。

 

龍だった。

 

紐がくっついていると思えたのは、鋭い爪のある手足だったのだ。

 

龍が首を巡らせて、こちらを見たかと思うと真っ直ぐ飛んでくる。

 

この三年間で摩耗した僕は心が硬い石のように鈍くなっていて、あまり驚きが起こらなかった。

 

龍が僕の頭上に影を作って空中で静止する。蛇のような身体が伸びて、首だけが僕の側に近付けられた。

 

「探したぞ、人の子よ」

 

威圧感のある声は低く、ざらりとした耳触りだった。熱い呼気とびりびりと痺れるような圧迫感に僕はフェンスから一歩退いた。

 

生えそろった鱗が光を反射して、龍の黒っぽい身体の表面を赤や青、クリーム色に複雑に輝かせていた。

 

返答に困って大きな顔に目を向けると、その額に違和感があった。

 

黒く太い角丸フレームの眼鏡が、龍の額の皺に引っかかるようにして乗せられている。

 

僕が以前、池に放り込んだものに似ていた。

 

特徴的な眼鏡ではないが、結局その形が一番落ち着くので、そっくりなものをもう一度買って使っているのだが。

 

「どうして」

 

今日初めて声を出したのでつっかえて掠れたのだが、龍は僕が怯えていると思ったのかもしれない。

 

威圧感を和らげようとするように更に頭を低くして、僕の目線と同じくらいになると額に乗った眼鏡がよく見えるようになった。

 

「我に供物を捧げたろう。礼を言いに来た」

 

「人違いじゃないですか」

 

覚えがなかった。すぐに龍は気付き、この場を立ち去るのだろう。

 

この出会いは、僕が飛び降りる前のちょっとしたご褒美のようなものか。

 

龍は全てを悟ったような顔で頭を横に振った。楽器の弦のように太いヒゲが揺れて、屋上のフェンスをぴたぴたと叩く。

 

「人の子は物忘れが多いと聞く。我が生まれた由来を話してやろう」

 

そして屋上に身体の半分ほどを着地させて、余った尻尾を空中に投げ出したまま目を閉じた。

 

「我は一匹の鯉に過ぎなかった。何を考えることもなく、漠然と口を開けて、人が与える食物を追いかけていた。が、ある日そこにいつもと違うものが投げ込まれた」

 

龍の朗々とした語り口は聞き取りやすく、懐古的な色を含んでいて、僕よりずっと人間らしく喋るものだと思った。

 

「鋭い形と透明に輝くそれを我は美しいと思い、兄弟たちを押しのけ食らった。途端、腹の奥が焼け付くように熱くなった。我の中に今までよりもずっと強く、生きたいという意思が生じた……それが、初まりだ」

 

目の前が暗くなってゆく。腹が痛みを堪えるように締め付けられ、どこか客観的な自分が僕を詰る声が聞こえた。

 

「透明な供物はいつまでも腹の中で生き続け、時折我の身体に熱を与えては、生きるということについて考える切欠となった。我はより良く生きたいと考え、旅の末に……登竜門を上り、龍と成った」

 

龍は小舟が着岸するように静かに語り終えて、ゆらりと空中に投げた尾を揺らして巨体を誇示すると、僕の顔を宝玉のような眼差しで見つめた。

 

「池の中から見た、ぬしの横顔……我は忘れなかった。ぬしが与えたこの供物、さぞや貴重な宝であったのだろう? 龍の奇跡の一端よ。我の腹のうちから取り出し蘇らせたのでな、遠慮はいらぬ」

 

龍は眉間の皺を深めて喉をごろりと鳴らし、笑ったように見えた。ぐいと鼻先を突きつけ、眼鏡を返そうとしてくる。

 

指先が冷たい。撒いた種がどんな植物に育ったとしても、刈り取らなければならない。そういう言葉を聞いたことがある。

 

「……いらないです」

 

供物なんかではない。それは僕が君たちに向けた憎しみだ。

 

龍は眼鏡を知らないのだろうか。

 

「我は龍と成って真っ先にぬしを探して飛んで参ったのだ。……恩を返させろ」

 

龍の声はどこか懇願するようで、彼のプライドを感じさせた。

 

僕に恩を感じているというだけでなく、借りを作ったままでいることを避けたいようにも見える。

 

「では……僕が身に着けているこれ、同じものだってわかりますか?」

 

龍が急に恐ろしい顔をしたので思わず更に一歩下がるが、目を凝らしたらしい。

 

僕の顔に眼鏡が乗っているのを見て、龍は身体を波打たせて暫し黙る。

 

「……宝の数は多い方がいい」

 

しれっと誤魔化すようなことを言う。

 

いらないってば、と拒絶の言葉が喉から出そうになる。

 

龍に奇跡の力があるのなら、他の方法で恩を返して欲しいと思った。

 

「いりません。代わりに、僕の願いを叶えてくれませんか」

 

「……ほう?」

 

「雷でみんな殺したりできますか? 雨で街を沈めたりできますか?」

 

考えがあったわけではないのに、早口で飛び出していく自分の言葉に驚いた。

 

僕にはまだ、恨むような強い感情が残っていたらしい。

 

少し、安心してしまう。

 

龍はぐるぐると喉を雷のように鳴らして、蛇のような舌で自分の鼻先をちろりと舐めた。

 

「本来ならば……そのくらいは朝飯前だ」

 

「それなら」

 

はっきりしない言い方に違和感を覚える。

 

「しかし、我は龍と成って日が浅い。奇跡の力はまだ未熟、大それたことはできぬのよ」

 

龍の声が気まずそうなものになる。雨の勢いは増してゆく。僕は濡れ鼠だ。

 

「でもこうして、あなたが来た途端に天気が崩れたじゃないですか」

 

「多少の雲は我が声に応じるが、あらゆる雲を自在に、とはいかぬ」

 

身体の力が抜けるようだった。偉大に見えた龍が、ただの喋る蛇のように見えてくる。

 

「何なら、できるんですか」

 

「……この供物を完全形へと蘇らせることに、ありったけの力を使ってしまった」

 

龍の頭が落ち込んだようにどんどん下がってゆく。もう細長いだけの鯉だ。

 

深く息を吐いた。全身が雨を吸って重たく、濡れそぼった眼鏡が景色をぼやけさせる。

 

龍の彫りが深い顔もよく見えず、威厳までもぼやけていく。

 

この龍は僕の憎しみを飲み込んで生まれ変わって、ずっと誤解して生きていくのだろう。

 

いつか僕のしたことの真意を理解して、腹を立ててくれるのだろうか。

 

僕の身体を雷で砕いてくれるのだろうか。

 

それならそれで、僕は本懐を遂げるのだから構わない。

 

天罰なんて恐ろしくない。

 

もっと恐ろしいことが日々の中にいくらでもあったが、今は思い出せなかった。

 

「何もしなくていいです」

 

僕は一歩踏み出して、龍の鼻先に手のひらを押し当てた。親愛を示したつもりだ。

 

濡れてひんやりとした質感は固く、魚からはかけ離れた手触りだった。

 

「恩を返したいなら、僕のことを覚えていてください」

 

龍が顔を上げて怪訝そうな顔をした。その額にはずっと眼鏡が鎮座している。

 

「それだけでいいのか?」

 

「いいです」

 

それだけのことが人を救うなんて、鯉を卒業したての彼にわかるはずもない。

 

僕に恩を感じて飛び回る勘違いした龍がこの空のどこかにいるなんて、それだけでむず痒いような喜びじゃないか。

 

いつの間にか雨は止んでいて、少し散った雲間から橙がかった夕日が差し込んだ。

 

濡れた眼鏡と龍の鱗に反射して、視界に丸い光が散っている。

 

輪郭がふやけた景色は優しく、石になった胸の奥がふっと緩んだような気がした。

 

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【眼鏡の片割れ】20161020