トゥートゥー、トゥットゥー、トゥートゥー、トゥットゥー……
キジバトの声で目が覚めた。
薄い布団をはねのけて、母の作る朝食をとってから外に出た。
少女は蝶のペンダントを付けて、緑色のなびく田園からの風を感じながら友達のところへ向かう。
時刻は十時ごろだが、遠くは淡く霧がすんでいる。一日中、こうだ。
初夏、小山蝶子は十二歳。
咲という女の子と途中で落ち合い、少年、渡利の家に迎えに行った。
近所で唯一同い年の三人はいつも一緒だ。
今日は凧を揚げに河川敷の土手へ。川の向こうは霧で見えないけれど、見上げた空がとても美しい。
輝くばかりの空に雲が滲んでいるのを見ると、蝶子は不思議と泣きそうなほど胸が詰まる。
三人は土手の上で、それぞれの凧を見せあった。
「咲、お花のかたちは止めたの?」
蝶子は、咲の、小鳥を模した凧を見て悪戯っぽい顔をしてみせた。前に飛ばしたとき、まるでうまくいかなかったことをからかっているのだ。
「だって、くるくる回るばっかりで全然浮かばないから!」咲は頬を膨らませて拗ねてみせる。
三人の凧はお手製のもの。父親にすこしだけ手伝ってはもらったけれど、苦心したかいがある力作だ。
蝶子は身に着けるものから凧のかたちまで、蝶にこだわる。
渡利は空のように、蒼い凧に白いふわふわの模様を手描きしていた。
一人が凧を支え、一人が糸を手繰って一緒に走り、頃合いを見て片方が手を離す。ゆるやかな風に凧は尾をたなびかせながら上昇し、やがて中空で安定した。
三つの凧が空を泳ぐ。
立ち止まって時折糸を引けば、それぞれ絡むことなく距離を保てる。
「僕、毎日でもこうしていたい」渡利は笑う。その笑みすら空に溶けるような儚げな錯覚をして、蝶子は声を上げた。
「毎日しようよ!明日は山菜をとりに行って、あさって、また凧揚げしよう?」
咲も笑っている。幸せだった、何もかも。
蝶子は生まれてこのかた幸せしか知らないけれど、何と比べなくとも幸せだと感じることができた。
風が気持ちいい。
空と緑と家族と友達。
そのあまりの美しさに蝶子はつい饒舌になって、あれもしよう、これもしようとはしゃいでいた。
*
トゥートゥー、トゥットゥー、トゥートゥー、トゥットゥー……
キジバトの声で目が覚めた。
今日は友人の咲と山菜とりの約束をしている。
近所で唯一同い年の咲と蝶子はいつも一緒だ。
「咲?」家に迎えに行くと、咲はどこか困惑した顔でいた。
「近所のおじさんとおばさんが、"あの子と仲良くしてくれてありがとう"って言いに来たのよ。わたし、なにもしてないのに」
それなら蝶子の家にも来ていた。蝶子と母に深々と頭を下げて、ありがとうと言いながらも沈痛な面持ちをした中年の女性を思い出す。
「きっと、たまにはおかしな人がいるんだよ」
蝶子はそう笑い飛ばしながらも、気になっていた。
「でもあの、凧……空みたいに蒼い、……あんなの知らない」
突然やって来た知らない男女は、蝶子のとも咲のとも違う知らない凧を預けて行ったのだ。蒼に白いふわふわ模様の凧。
少し気味が悪いけれど、何か察したらしい母はなにも説明してはくれず、ただ「あの凧も揚げてやりなさい」と言ったから、部屋に置いてある。
誰か子供の忘れ物かしら、と蝶子は首を捻る。
二人は山菜を採りに公園を取り囲む雑木林に入った。鳥の声と木々のざわめきが聞こえる。
知っている草を手あたり次第カゴに摘む。ワラビにフキ、のあざみ。こんなにあっても下処理が大変になるばかりと母は苦笑するかも 知れないけれど、摘むのが楽しい遊びなのだから気にしない。
「……■■■…■、■■■?」
背の低い木の陰から、突然、声が聞こえた。
振り向くと一人の少年が立っている。その声は一言発する度に高く割れたり低く沈んだり、とても不明瞭で、日本語のような音を発してはいるのにそれが意味のある言葉を 結べていなかった。ひどくもどかしく、気持ち悪い感覚に襲われる。
少年は蝶子たちと同じくらいの年齢らしい。見たことがない。ひどく悲しげな顔をして、きれいな服を着ていたが、一秒ごとに色が変わってしまう。
「なに? なんなの? あなた、人なの……?」
蝶子と咲は薄暗い木々の中、数歩後ずさる。蝶子と咲に手を伸ばす少年は、とてもこの世の生き物とは思えなかった。
少年は繰り返し何かを口にするが、そのうち、声だけでなく少年の姿さえもどんどん不鮮明に、四角形の粒の集まりに分解されていく。
ただ、少年は散り散りの粒になる間際、確かにこう言った。
「——……コ チョウ ノ ユメ……」
「……胡蝶、の、夢……?」
その言葉を蝶子が反芻した瞬間、空気が止まった。
木々の葉擦れの音も、隣で怯える咲の呼吸の気配も、なにも感じられなくなり、蝶子は自分の指先すら動かなくなっていることに気が付いた。蝶子ごと世界が瞬時に凍ってしまったかのようだった。
一瞬で幕が降りたようにすべてのものが黒くなり、蝶子の意識は落下した。
*
トゥートゥー、トゥットゥー、トゥートゥー、トゥットゥー……
幼い頃住んでいた田舎では、いつもこうしてキジバトの声で目覚めていた。もう絶滅しているかもしれない。
私は整然と並ぶベッドの間を縫うように動く。通路はあまり広くはなく、昔のゲームのように十字方向にしか歩けない。
背後で人が動く気配を感じて振り向けば、一人の少女が目を開け上体を起こしている。息が荒いようで胸が細かく動いており、額に汗も浮かんでいるようだ。自発的に起きる人は珍しい。
私は少女に近付き、「おはよう」と声をかけてベッドの傍に屈みこんだ。
「気分はどう?」声をかけてから、思わず息を呑んだ。この少女は確か一歳と数か月でログインしており、起きたのはこれが初めてだ。
参った。彼女に最初から教えるのは骨が折れそうだ。昨日の夜も少年が一人亡くなり、さっきまでその後始末に追われていたというのに。
「まず君の名前と年齢は……?」
「……小山蝶子、十二歳」少女は恐る恐る手を伸ばして辺りに触れようとする。「ねえ、ここはどこなの? なにも見えない、あたし、夢を見てたの?」
「眠れるようにアイマスクをしているだけ。全部説明するから、落ち着いて」私は精神科医のように、穏やかに話す。少女を安心させねばならないから。
「突然のことで驚いていると思うけど、なに、これは悪い体験じゃない。君の世界が大きく広がったことを、どうか喜んでほしい」
そう、取ってつけたような明るい口調で前置きして、私は少女に世界のすべてを語った。
*
彼女は夢を見ていたと思うだろうか、私はそうは思わない。
少女の頭にはリボンがつけられている。
リボンというのは電脳の名前で、この施設のベッドに寝ているすべての人がつけている。形状は髪飾りのリボンとそっくりで小さく可愛く、ただ裏から見ると、プラスチックのフタがネジで留められている。
「君がさっきまでいた場所、あれは、インターネット上の仮想空間だ」
インターネットとは何なのか、その辺りは両親から教育されていることを期待する。
「うそ」
「うそじゃない。私の話を全部聞いてごらん」
少女はリボンを通じて自分の肉体をインターネットにアクセスしていたのだ。体は眠ったまま、毎日、朝から晩まで。
オンラインゲームをログアウトすることなくやり続けるのと似ている。肉体や居住空間などの情報が極めて細かく全てサーバーにセーブされており、朝が来ると共に正しくロードされる。
360度のマップデータのロードには時間がかかるので、遠くは霧がかかったように見える。高性能のサーバーPCにも限界があるのだ。
そしてリボンがPCと確実に違う点は、ネット上で触れたものに応じて脳に直接「五感」の電気信号を送り込むところだ。ヤカンに触れれば熱く、スイカは甘く瑞々しいと感じられる。
もはやバーチャルなどと呼べる世界ではない。多少の不可能はあるが、現実とほとんど遜色がない空間だ。
だから、ネット上にできた仮想の空間は、これまでの世界と逆転したかのように「リアル」と呼ばれている。皮肉のようにも思う。
少女はそれを聞いて、そっと自分の頭に手を宛てた。少し固い、リボン形の電脳に触れる。理解できなくとも、把握した様子だ。
十年ほど前まで高級品だったリボンは今や高品質で廉価なものが出回っており、今や、全人類の約半分は肉体をベッドの上に残してリアルの世界で日々暮らしている。
SF映画やアニメに描かれた世界がやってきたらしい。
昔は倫理的に問題があるとか否定的な意見がネット上で多数を占めていたが、今や誰もがリアルの中で寝て起きて恋をする。
激しいスポーツをすれば実に現実的に筋肉痛を感じるが、あるレベル以上の痛みは制御されて脳に送られないため、リアルで腹を刺されてもショック死や失血死はあり得ない。 死ぬとしたら、ベッドに寝る本体に何かあったときだけだ。生まれつき五感に障害を持つ者も、脳に直接電気信号を送るリアルの世界では目が見え、耳が聞こえる場合が多いという。だから、みんなこぞってリアルで暮らす。
そう説明すると、少女の眉間の皺が深くなる。
「つまり、あたし全部ウソの景色を見てたの? じゃあ、ここは? こっちがホントの世界なんでしょ?」
「見てみるかい? 君が生まれた世界がどんな場所か」私は皮肉な気持ちで辺りを見回した。
夢から覚めた気分の少女に見せる現実は、残酷かもしれないが。
そして、少女にかけていたアイマスクを外す。
*
真っ白だなあ、と小山蝶子は思った。現実じゃないみたい。
蝶子は病院の一室のようなところにいた。整然と並ぶベッドと計器だけで、ベッドには様々な色のリボンをつけた、リアルに暮らす人々の本体がただただじっと並んでいる。
起き上り、白いブラインドを開けて窓の外を見た。驚いた。豆腐のように真っ白な建物ばかりが、枯れ色の草原の合間に並んでいる。人の姿も見えない。
「ここと同じ、リアル居住者の本体保管施設だよ。全部。千代田区は研究施設だけだ」この地区を千代田区と言うらしい。
「ネットの世界、リアルに対して……私たちが今いるこの世界、なんと呼ばれているかわかる?」研究者の男性は、この世界を恥じているように見えた。少し早口で、それを蝶子は悲しく思う。
「現実……じゃないの?」
「現実らしさはどこにもないよ。ここはただ、ドロップボックスと呼ばれている」
リアルの世界で暮らすには、肉体を安全な場所に保存しておく必要がある。また、大きなメインコンピュータや、バックアップのためのハードディスクを置いておかなくてはならない。
かつて人が暮らしていたこの世界は今や、そうしたものを放り込んでおくためだけのばかでかい箱だ。一部の研究者やリボンを買えないほど貧しいものだけが残り、保管物の管理と保護をして暮らしている。
この施設は大きな箱型をしていて、職員が最低限の生活をできる設備がある他は全て真っ白な部屋に肉体が保管されている。まさに箱だ。
そう研究者は語った。蝶子にはあまり細かいことはわからない。
リアルの世界がたくさんのもので溢れていくと同時に、現実に期待する者はなくなり、急速に荒れ果てていく最中なのだという。
アナログの世界に現実感は失われている。それに比べて、家族と友人がいたあの世界の空の青、田園の緑はなんて現実的だったのだろう。
「目覚めなければよかった」蝶子はそう言った。
「現実の世界はちっとも魅力的じゃない。でも、私が大好きな場所は現実じゃない」
どちらが「本当」かと言われれば。
蝶子はひとまず、また眠ろうと思った。急に色々なことを教えられたせいか、子供の頭はすっかり疲れている。
ベッドにくたりと横たわれば、傍の機械をなにか操作して、研究員が蝶子を眠りに戻そうとする。心地よい静かな音が聞こえてきた。あと少しで音楽になりそうでならない、綺麗な音だ。
「あ……待って」蝶子は抗いがたい眠気を感じながら、ふと、思いだした。けれども機械から放たれる睡魔はもう止められない様子で、研究者が機械のツマミを戻しても眠気は晴れない。
「あたし見たの。色がちかちか変わる男の子……言ったの、胡蝶の夢、って……!」
蝶子は訴えるように研究員を見上げて声を絞り出す。その言葉に彼は確かに反応したが、蝶子は答えを聞くことなく、再び眠りに落ちていった。
*
小山蝶子はリアルの中に帰っていった。帰すのが早すぎたと私は後悔している。最後に彼女は「胡蝶の夢」と言った。色が変わる男の子、とも。
これは詳しく話を聞いて本社に報告すべきバグのデータだ。
突然奇妙な人間が目の前に現れ、消える。これは世界中で報告されている事例だが、理由をわれわれ研究者は明かさない。
明かさないことが疑念に変わると知ってはいても、まだ確証がないことを口にしてはいけない決まりなのだ。
幽霊が実在するかもしれない、などと。
全人口の半分がつけたリボンに、巨大なサーバーPC、二十四時間バックアップをとり続けるハードディスク。仮想空間時代はとかく電力が要る。しかし、発電所を増やし安全に運営していくには 相当な人手がいる。そこで進化したのは再利用発電技術だった。
一日に生まれる人口より死ぬ人口の方が多いため、死んだ人間のリボンを回収しデータを消して、そのリボンを使い発電することができるようになったのだ。有害物質はほとんど出ないのだが、エコという言葉は 現実世界がドロップボックスと呼ばれるようになってから久しく聞かない。
稀に、リボンを使っていた人間のデータが残っており、そこから作られた電気に混じって、もういない人間の画像データや音声だけがリアルの中に姿を覗かせる。
詳しいことは解析できていないが、たぶんそういうことだ。
「小山蝶子が幽霊を見た前日、死んだ子供がいたな」
私は思い出す。偶然だろうか?渡利という少年、小山蝶子の友人が昨晩亡くなり、規定に基づいて肉親以外から記憶を消去された。
幽霊について、まだわからないことは多い。
友人たちに忘れられてしまった少年が、もう一度会いたいと電気に乗って、解像度の荒い肉体で小山蝶子の前に現れたのだろうか。
それじゃまるで、本物の幽霊の残留思念だ。
私はこの世界を、昔見たSFの世界、進化の最終形だと思っていたが、幽霊が未だ存在するというのに……本当に未来の世界なのだろうか。
*
目覚めると夢の中。美しい森の中で、隣には驚きのあまり固まった咲がいた。
「蝶子ちゃん、急に消えた! どこにいたの、ねえ」咲もきっと、この世界がインターネットの中にあるとは知らないだろう。
蝶子は自分一人が大人になってしまったような気がしていた。初めて見た現実の世界は色も温度も風もなく、まるで悪夢みたいだった。
咲にどこに行っていたのか正直に話したら、どんな顔をするだろう?
傷つくに違いないから蝶子はなにも言わなかった。
ただ、摘んだ山菜をカゴに押し込めて帰ると母親に詰め寄った。どうして教えてくれなかったのかと。
母いわく、「胡蝶の夢」とはパスワードだったらしい。
子供が勝手にリアルを抜け出して迷子にならないよう、親が制限できる機能があるそうだ。
それをあのふしぎな少年が蝶子に教え、蝶子は自分一人でリアルを抜け出してしまった。
「見なきゃよかったよ、お母さん……ほんとのことより、嘘がいい」
本当のことが正しくて美しいとは限らないんだと、蝶子は思う。あんなにも味気ない現実の世界なら知らなくてよかった。きっと、だから咲も何も知らないのだろう。ほとんどの 子供たちにここが仮想空間だと隠されているんだろう。
しかし同時に、蝶子は初めて見た現実の世界を忘れられない。ただの箱、ドロップボックスと呼ばれてはいても、蝶子が生まれたのはあの世界だから。
もし子供たちがみんな仮想空間のことを知ったとしたら、どんな未来になるんだろう?将来、何かが変わるんだろうか。
小山蝶子は山菜の天麩羅を食べて、眠る。
夢を見た。真っ白な天井に真っ白な壁の部屋で横たわっている。「おめでとうございます」声が聞こえた。どこか遠くで目覚ましのように赤子の泣き声が響く。どこか懐かしいような気がした。それが ずっと昔の現実世界、ないはずの記憶なのだと、小山蝶子にはわからない。
トゥートゥー、トゥットゥー、トゥートゥー、トゥットゥー……
キジバトの声で目が覚めた。
---------------------------------
【うつつの蝶々】2014/04/24